Slavoj Zizek "Denying the Facts, Finding the Truth"

1/5のNew York Times、Op-edにジジェク! いやあ、ジジェクはこういうところに出していい人間なんだ……。ということで記念に翻訳してみたが、正直意味があんまりわからん(手押し車の小話>同じトリックのところとか、オチとか)。でも訳しちゃったので、載せる。


事実の否定から真実の発見へ
 By スラヴォイ・ジジェク

 イラク戦争のポップ・ヒーローを挙げるとしたら、その1人は疑いもなくムハンマド・サイード・アル=サハフ*1だ。この運のないイラクの情報相は、イラク侵攻のあいだ毎日行われた記者会見の場で、この上なく明々白々な事実すら英雄的に否定し、政府の公式路線に固執した。たとえ米軍の戦車が彼のオフィスからたった数百ヤードのところまで来ていても、バグダッドの通りを行く戦車を撮影したテレビ映像はハリウッドの特殊効果にすぎないと強弁し続けた。

 度を超えたカリカチュアとしての行為によって、サハフは「通常の」報道の隠された真理を明らかにしている。サハフのコメントに洗練されたスピン(偏向)はなく、単に率直な否定があるだけなのだ。事実の拘束からの解放、ゆえに事実の不快な側面をスピンによって消し去る必要からの解放へ向けた努力が表出されており、彼の介入には何かすばらしく解放的なところがある。つまり、「どちらを信じるんだ、おまえの目か、わたしの言葉か?」というのが彼のスタンスなわけだ。

 そのうえサハフは、ときには奇妙な真実に至りつくことすらあった。アメリカがバグダッドの一部をコントロール下においたという主張を突き付けられると、サハフはすばやく言い返した。「奴らは何もコントロールなどしていない ── 自分自身のコントロールすらできないではないか!」

 正確には何を、彼らはコントロールしていないのか? 1979年、コメンタリーに発表されたエッセイ「独裁制二重基準」において、ジーン・J・カークパトリックは「権威主義体制」と「全体主義体制」の区分を詳述した。この概念は、右派の独裁者と共同する一方、共産主義体制を厳しく扱うアメリカの政策を正当化する役目を果たした。つまり、権威主義の独裁者はプラグマティックな支配者であり、おのれの権力と富を気にかけ、なんらかの大義リップサービスをするかもしれないが、イデオロギー的問題には無関心である。対照的に、全体主義の指導者は自己なき狂信者であり、イデオロギーを信じ、その理想のためならあらゆるものを賭けて惜しまない。

 カークパトリックの主張によれば、権威主義の支配者は、物質的、軍事的脅威に対し合理的かつ予想可能なかたちで反応するので対処できるが、全体主義の指導者ははるかに危険な存在であり、直接対決する必要があるという。

 皮肉なのは、この区分こそが、アメリカのイラク占領の問題点を申し分なく要約していることである。サダム・フセインは腐敗した権威主義の独裁者だったのであり、権力保持に汲々とし、残忍だがプラグマティックな考慮に導かれていたのだ(このため、1980年代にはアメリカと協力した)。サダム体制の世俗的性質の究極的証明となるのは、2002年10月のイラク選挙──この選挙でサダムは100%の支持を獲得し、こうしてスターリン体制下における最高の得票率だった99.95%を凌駕したが──において、全国営メディアで何度となく流されたキャンペーン・ソングがホイットニー・ヒューストンの"I Will Always Love You"だったという事実である。

 アメリカの侵攻の帰結の1つとして、ずっと強硬な「ファンダメンタリストの」政治的・イデオロギー的配置をイラクに作りだしたということがある。これにより、イラクでは親イランの政治勢力が優勢となった。介入は要するにイラクをイランの影響下に明け渡したのだ。もしブッシュ大統領スターリン主義者の裁判官の手によって軍法会議にかけられるなら、大統領はただちに「イランのスパイ」として有罪になるにちがいない──このような想像もできるだろう。というわけで、このごろのブッシュ政治の暴力的激発は、権力の行使ではなく、パニックの表れなのだ*2

 盗みを働いているのではないかと疑われている工場労働者の小話を思いだしてみよう。毎夕、勤務を終えるさい彼が転がしてくる手押し車は入念に調べられるが、守衛たちは何も見つけられない。毎回からっぽなのである。やっとのことで、守衛たちは理解する。労働者が盗んでいるのは手押し車そのものだったのだ。

 これが、今日このような主張をする者が使おうとしているトリックだ。「でも世界はサダムがいなくなってましになったじゃないか!」。彼らはサダムに対する軍事介入そのものの影響を考慮するのを忘れているのだ。そのとおり、サダム・フセインがいなくなって世界はましになった。だが、この侵攻そのもののイデオロギー的・政治的影響を全体図に含めても、ましだといえるのか?

 世界の警察官としての合衆国? わるくない。事実、冷戦後の状況は空隙を埋めるなんらかの世界的パワーを必要としていた。問題はほかにある。合衆国は新しいローマ帝国であるとする、よくある認識を思い起こそう。今日のアメリカの問題は、新しい世界帝国であるという点にではなく、そうではないという点にある。つまり、合衆国は帝国のふりをしながら、ネイション・ステートのように行動を続け、自国の利益を容赦なく追求している。現在のアメリカ政治を導いているヴィジョンとは、エコロジストの有名なモットーを奇妙にも逆転させたものであるかのようだ。すなわち ── 地球規模で行動し、地域規模で考える。

 9/11後、合衆国は自分たちがどういった世界の一部を成しているのか理解する機会を与えられた。その機会を利用できたかもしれない──実際にはそうせず、代わりに昔ながらのイデオロギー的傾倒を再表明することを選んだ。貧しい第三世界に対して責任と罪などない。われわれは今や犠牲者なのだ!

 ハーグ国際法廷に関していえば、英国の著述家のティモシー・ガートン・アッシュは感傷的に主張した。「フューラーもドゥーチェも、ピノチェトも、アミンもポルポトも、主権という城門に守られているから国際法の手は届かないなどと思うことは、二度とないだろう」。この名前の羅列に欠けているものに、誰もが当然気づくはずだ。ヒトラームッソリーニというお馴染みのコンビ以外に、挙げられているのは3人の第三世界の独裁者である。大国からも少なくとも1つぐらい名前を出して、その安眠を少しばかり妨げるわけにはいかないのか?

 それとも、こうした悪党の標準的リストに従うとして、サダム・フセインや、あるいは、マヌエル・ノリエガをハーグに引き渡すという話がほとんど出ないのはなぜなのか? なぜ、Mr.ノリエガに対する裁判は麻薬密輸に関してだけで、独裁者としての残忍な悪行は扱わないのか? CIAとの過去の関係を暴露されるからではないのか?

 同じように、サダム・フセインの体制は、忌まわしい権威主義国家であり、多数の犯罪で有罪であり、その犯罪の大半は自国民に対して行われた。しかし、奇妙だが、鍵となる事実に注目すべきである。合衆国の議員やイラクの告発者がサダムの悪事を列挙するさい、人々の苦しみと国際上の正義の違反という見地からすれば最大の犯罪を規則的に言い漏らしていた。最大の犯罪とは、サダムのイラン侵攻である。なぜ言い漏らしたのか? なぜなら、合衆国と諸外国の過半数イラクによる攻撃を積極的に支援していたからだ。

 そして今、合衆国は、別の手段を用いて、サダム・フセインの最大の犯罪を継続している。つまり、イランの政権を打倒するという終わることのない企てを、である。これが、敵との戦いが、実際には自分のクローゼットのなかの悪霊との戦いであるときに支払わなければならない代価なのだ ── つまり、自分自身のコントロールすらできない。

*1:通称コミカル・アリ、またはバグダッド・ボブのこと。

*2:not exercises in power, but rather exercises in panic. この文は意味が分からなかった。