グレッグ・イーガン『ひとりっ子』isbn:415011594X

イーガンの第三短編集。いろんな短編でペンローズがバカにされてた気がする(「心の中の皇帝」「“魂”の量子不確定性」とか)。前のふたつの短編集と較べると内容は落ちる。「行動原理」、「真心」、「決断者」、「ふたりの距離」は大した話とは思えなかった。「ルミナス」は傑作だけど既読。でも残りの2つ、「オラクル」と「ひとりっ子」は面白かった。
以下「オラクル」について。一応ねたばれあり。

「オラクル」

「オラクル」はちょっとずるい。歴史改変もので、C・S・ルイス(作中ではジョン・ハミルトン)とアラン・チューリング(作中ではロバート・ストーニイ)が「機械は思考できるか」というテーマでBBCにて生激論! みたいな話を嫌いになるのはむずかしい。イーガンとしては相当ストーリー偏重の短編。
ハミルトンは「機械は(人間と同等の)思考はできない」とする論拠として、ゲーデル不完全性定理を挙げる。実際、ゲーデル自身がギブス講演において、人間精神はいかなる有限機械をも上回るという帰結を不完全性定理から引き出している。これはロジャー・ペンローズなども用いたある意味由緒ある主張だ。不完全性定理/非決定性定理/停止定理はアルゴリズムに還元できず、それを証明した人間>機械みたいな理屈。*1実際、「オラクル」の話のなかで、ハミルトンにゲーデルについて入れ知恵したのはペンローズということになっているらしい。直接名前は出てこないが経歴的にはたしかに当てはまる。
ストーニイの反論は、機械にもっと“人間的”な条件を与えて、環境との相互作用や試行錯誤を行ったりして学習できるようになってはじめて、人間と比較できるようになるというものだった。
ストーニイと相方は議論に勝ったと思っていたみたいだけど、正直これだけだとハミルトン側が優勢な気がするんだが……
歴史改変の理論的説明は、物語内の理屈としてもよく理解できなかった。スピンや量子重力うんぬんのところではなく(そこはあきらめた)、粗視化や履歴や干渉のリボンのあたり。
 
ところで「オラクル」だけ訳が悪い気がする(ほかは気にならなかった)。日本語で読んでて意味が通らないところが結構ある。ためしに5つぐらい挙げてみよう。「オラクル」の原文はここにある。

p213「自分にはスパイ活動用の別の名前があるとにおわせたとき、クイントが当惑顔になって以来、ロバートは……」は原文"he had an appropriate name for a spook"。このheはクイントだと考えるのが自然だ。「あんたの名前はスパイにぴったりだな!」ってことでは。

p219「最初はロバートを手なずけるのに使っていたエサを」。エサは原文ではtrait。普通に特性とかで十分だと思う。このtraitは具体的には次と同じ意味だろう。

p219「もしきみたちのしていることが合法なら……」の原文は“You know, if it was legal"だが、このitはhomosexualityだろう。そう考えれば、すぐあとのクイントのセリフ“You might as well say that we should legalise treason!”と整合性がとれる。

p235「でも、それはまだどこかでなら回避できる」。原文は"But we've yet to be able to avert that, anywhere."なので、否定では。

p266「ロバートは議会への働きかけの種をまく手伝いはしたが、直接の活動はしていない。訴訟を起こしたのはほかの人々だ」。原文は"Robert had helped plant the seeds of the campaign, but he'd played no real part in it; other people had taken up the cause." もっと一般的な“運動”の話をしているんだと思う。

*1:このへんの話は高橋昌一郎ゲーデルの哲学』による。あんまりまじめに突っ込まれても困る。