フィッツロイ・マクリーン

ロリー・スチュアート(参照)の著書の書評を読んでいて、この名前に何度かぶつかった。wikipediaのエントリを読むとすさまじい経歴の持ち主だったので、そこから簡単にまとめておく。日本語で言及しているページは見あたらなかったが、たぶん一部では有名なんだろう。

フィッツロイ・マクリーン

サー・フィッツロイ・マクリーン(1911-1996)はスコットランドの外交官、兵士、冒険家、作家、政治家。イートン校、ケンブリッジ大を卒業すると、イギリス外交部に加わる。

当初、パリのイギリス大使館に配属されるが、退屈な仕事に嫌気が差し、モスクワへの転属を願い出る。マクリーンは39年末までモスクワに留まり、スターリンの大粛清の真っ只中に居合わせ、ブハーリンその他ロシアの大革命家の最期を知る。また、NKVDの追跡を振り切って、列車や徒歩でソヴィエト中央アジアへ入り込んでいる。

第二次世界大戦が始まると、マクリーンは一兵士として入隊を望んだが、外交官だったため入隊を阻まれる。そこでマクリーンは下院に立候補し(外交官を辞める数少ない手段の1つだった)、念願の入隊を果たす。選挙には当選。
1942年、マクリーンは新設されたSASの一員として、北アフリカ戦線で頭角を現す。T・E・ロレンス流のゲリラ戦術をドイツ軍後方で行い、イラクのドイツ人領事を誘拐するなど、数々の手柄を立てる。
1943年、ウィンストン・チャーチル直々の任命を受け、マクリーンは連絡将校としてユーゴスラビア入りする。マクリーン自身の皮肉な言いまわしによれば、彼の任務は「単に誰が一番ドイツ人を殺しているか見きわめ、もっと殺す助けになるような手段を提案する」ことだった。ドイツ軍を最も悩ませていたチトーとパルチザンが援助の対象になった。スコットランドの上流階級出身であるマクリーンと、共産主義者であるチトーらパルチザンの関係は一筋縄ではいかなかったが、マクリーンはチトーとパルチザンを尊敬するようになり、後年チトーの伝記を2冊書いている。また、特別に許されユーゴスラビアのコルキュラ島に家を購入している。
以上の冒険については当人の回想録"Eastern Approaches"ISBN:0140132716いる。後年は保守党の政治家として活躍。イアン・フレミングとは付き合いがあり、ジェームズ・ボンドのモデルの1人とみなされている。