George Packer"The Assassins' Gate"書評

触発され、ひさしぶりに自分も勝手訳をやった。New York Timesに掲載されたファリード・ザカリアによるGeorge Packer"The Assassins' Gate"書評。
この本を今読んでいるところだが、自分が案外ネオコンに近いことがわかって面白い。9/11以前のロバート・ケーガンの立場なら同意できそうだ。
……本当はイラク(1)即時撤退派、(2)段階的撤退派、(3)無期限駐留派(10年は居ろ派)でそれぞれの主張を書こうと思って、ジュアン・コールが(2)から(1)に立場を変えた論争とか読んでいたんだが、知らないことが多すぎて収拾つかないや。


「暗殺者の門」:占領のもたらす危険
 ファリード・ザカリア


 イラク戦争の記録である"The Assassins' Gate"で、ジョージ・パッカーは、ドリュー・アードマンという若いアメリカ人官僚について書いている。ハーバードで歴史学の博士号を得たばかりのアードマンは、『奇妙な敗北』ISBN:4130050486ダッドで読み直していた。歴史家のマルク・ブロックが自らの目で見た1940年のフランス陥落を記録した古典的作品である。アードマンは数行の文に特に惹きつけられた。「われわれの職業の基本は」ブロックは書く。「大ぶりな抽象的用語を避け、その背後の具体的現実のみを見出すよう努めることだ。背後の具体的現実──すなわち人間である」。イラクでのアメリカの物語とは、抽象的なアイデアと具体的現実の物語だ。「その2つのあいだには」パッカーは書く。「ワシントン-バグダッド間の8000マイルを優に超える距離があった」


 パッカーは合衆国を戦争へと導いたアイデアから、彼の興味深い記録を始める。ポール・ウォルフォウィッツを筆頭とする数人のネオコンは、長年にわたって信じていた。サダム・フセインを倒せば、中東の一大再編に道が開かれる。中東は独裁と反アメリカ思想から離脱し、近代化と民主主義に向かう、と。ダグラス・ファイスら他の何人かは、フセインを排除すればイスラエルの安全に資するところとりわけ大であると説明した。しかし、イラクに介入する最も一般的な理屈だったのは、軍事力と理想主義を結びつけ、アメリカの力を大胆に行使する[のを是とする]考えだった。彼らにとって1990年代──父ブッシュとクリントンの両者ともに──は後退の10年だった。「彼らはこのうえない確信を抱いていた」パッカーは記している。「自分たちに必要なのは使命だけだと」


 9/11が起こらなければ、彼らもその使命を得ずに終わっただろう。パッカーがインタビューしたネオコンの1人が正しくも指摘したように「他の何を措いても、9/11こそターニング・ポイントだった」。9/11以後、ブッシュ──また、リベラルの多数を含む、多くのアメリカ人も──は軍事力と理想主義を結びつけた合衆国の力の使い道を求め、中東の再編を約束した。イラクこそ、その対象だった。


 この本はパッカーが「ニューヨーカー」に寄稿した記事を集めたものだが、当然それだけに収まってはいない。この本には緊密な論旨や構造が欠けており、結果として脇道にそれ、尻切れとんぼに終わっているところもある。だがこの欠点は、ワシントン、ニューヨーク、ロンドン、そしてもちろんイラクをカバーするレポートの誠実さと知性によって十二分に埋め合わされている。パッカーは、行き当たりばったりでほとんど無計画であり、犯罪的ともいえるイラクの占領を、次から次へと鮮やかに描き出す。本書を読むと、抽象的アイデアと具体的現実の圧倒的なギャップを目の当たりにできる。


 信じ難いことだが、計画や予測もほとんどなしで、ブッシュ政権は一世代で最大の外交プロジェクトに取りかかった。中東の真ん中を占める人口2500万人の外国を、他の仕事に手をかけたまま占領した。今回の戦争に賛成だったパッカーは、本書の大部分の箇所で判断とコメントを差し控えている。だが、ついに自分を抑えていられなくなるときがくる。「抽象的なアイデアでがんじがらめになり、説明義務にはまるで無関心である」イラク戦争に最大の責任を負う地位の者たちは、「難しい仕事を、不必要に破壊的なものに変えた」そうパッカーは書く。そして「事態がうまくいかなくなると、非難する相手を他で見つけてきた」。


 パッカーは戦争前に行われた国務省の"Future of Iraq Project"についての議論を詳述する。イラク統治における政治的難題の概略を描いた膨大な文書を、このプロジェクトは提供していた。パッカーはコリン・パウエルに宛てたドリュー・アードマンの覚書について述べる。20世紀の戦後復興事業を分析したアードマンは、成功は2つの要素にかかっていると結論づけた。治安の確立と国際的支援である。これら内部文書は複数のシンクタンクにおける重要な研究を反映していた。どの研究も意見に大きく違いはなく、特に治安維持には大規模な兵力が必要だという点で一致していた。このホッブス的メッセージ──秩序こそ文明の必須条件の第一である──は保守派にアピールするはずだと思うかもしれない。実際は、こうした注意深い計画や考慮のすべてが、無視されるか、却下された。


 問題の一部は国務省国防総省のあいだでの、激烈で弱体化をひきおこす争いだった。これが原因となって、政策過程がすっかり機能不全を起こしてまったのだ。イラク侵攻後に罷免された陸軍長官トーマス・ホワイトはパッカーにこう説明している。国防総省にとっては「自分たちがこいつをコントロールするというのが何より大事だった。だから他全員は要注意人物だったわけだ」。国務省までが敵とみなされたのに、他国と協同するチャンスなどあっただろうか? もっと大きな問題はラムズフェルド国防長官(おそらくチェイニーも)が、「国づくり」は悪いアイデアだと頑強に信じていた点だった。クリントン政権はこれに手を出しすぎた、米軍はあんなことから手を引くべきだと考えていたのだ。ラムズフェルドはこの見方を一対のスピーチと論説記事で説明したが、どちらも事実に乏しく、論争の手管に多くを費やしていた。しかし、こうした観点とイラク侵攻をどう適合させるだろうか? 答え:「国づくり」など必要ないとみなす。ふたたびホワイトが説明する。「相対的にいってどうというところのない、料理しやすい任務だ。解放戦争なんだから、復興も短くて済むだろう。自分たちの思考様式はこんなふうだった」。ラムズフェルドのスポークスマンであるラリー・ディリタは2003年4月にクウェートに行き、待機していた米職員に告げた。国務省ボスニアコソボで泥沼にはまった。ブッシュ政権は権力をイラク人に委譲し、3ヶ月以内に撤退するつもりだ。


 というわけで、陸軍の当初の戦争計画にあった50万の兵力は、16万に切り詰められた。もしトミー・フランクス中央軍司令官が「抵抗を見せなかった場合、10万をぐっと下回るところまで数字は落とされただろう」とパッカーは述べている。またあるとき、フランクスの前任者アンソニー・ジニが"Desert Crossing"の現状を尋ねたことがあった。これはジニの手になる入念な戦後計画で、国境の封鎖、兵器集積地の確保、治安提供などに及んでいた。ジニは計画は放棄されたと告げられた。想定が「否定的すぎる」という理由だった。


 略奪が開始され、食い止められずに横行すると、占領は権威のオーラを失い、状況は下降の一途をたどった。イラクの初代ツァーのジェイ・ガーナーは、数十人の米職員とともに、すぐさま交代させられた。これが計略と対抗計略、官僚間闘争の流れのはじまりだった。ガーナーの後任はL.ポール・ブレマーである。ブレマーは知性ある男だが、彼の行政経験といえばオランダの米大使館の運営に限られていた。なんにせよ、ブレマーの2つの破滅的決定はワシントンの意思だった。イラク軍の解体と「脱バース化」である。後者はバース党の上位4階層全員を政府の行政職から締め出すというもので、対象者が犯罪に関与したかどうかは無関係だった。(イラクにおいて、パブリック・セクターからの追放は実質的には失業を意味した。)パッカーは「行政組織に雇用されていた少なくとも35000人(大半がスンニ派)が、一夜にして職を失った。そのなかには数千人の学校教師と中堅クラスの公務員が含まれる」と書いている。さらに数千人がそれ以降に追放された。


 「脱バース化」の命令こそ彼の活動の中で最も人気を博したものだと、ブレマーはしばしば主張してきた。おそらくその通りだろう──シーア派のあいだでならだが。しかしこの主張は、クルド人の独立を宣言するとイラクの北部地域で歓迎を受けたというような言いぐさと変わりはない。イラクの3つのコミュニティの釣り合いをとり、平和を維持する活動として考えた場合、命令は大災厄だった。ブレマーの決定は、新生イラクでは職と地位が奪われるというシグナルをイラクスンニ派に送った。たとえば、アパルトヘイト後、南アフリカの黒人が「全白人は軍、公務員職、大学、大企業から追放される」と発表したらどうなるか想像してほしい。1日にして、ブレマーはイラクの社会構造をひっくり返した。そのうえこの命令は、旧スンニ官僚を引き継ぐ能力のある新しい支配層を用意もせずに、実行されたのだ。


 この決定は暴動を引き起こさなかった。ただし、占領後最初の数ヶ月間は、スンニ派ファルージャではなくシーア派ナジャフのほうが、アメリカにとって大きな問題だった事実は注意しておく価値がある。だが、ブレマーはスンニ派の不満を煽ってしまった。そのスンニ派は職はないが、銃はふんだんに持っていた。とりわけ重大だったのは,イラクに急速に広がりつつあった混乱と機能不全に、この決定が上乗せされたことだ。「われわれはアメリカ人がこの国を模範国家に作り変えてくれると期待していた。第2のヨーロッパにだ」無職の電気技術者が占領の1年目、パッカーに語った。「だから反撃しなかったんだ。いまではショックを受けているよ。100年前に逆戻りしたみたいだ」。


 現地で成功を得るよりも、同盟者に褒美を与えるほうに注力した占領活動をパッカーは描いている。アフメド・チャラビにいい目をみさせてやるよう、ガーナーはファイスとウォルフォウィッツから指示されていた。イラク人亡命者組織の指導者チャラビは、ペンタゴンのお気に入りだったのだ。国務省の官僚はバグダッドでの上位ポストから締めだされ、たとえ唯一無二の資格があっても認められなかった。上級職は、ファイスの前職である法律事務所のパートナーとアリ・フライシャー(大統領報道官)の弟にわたった。ハリバートンのような仲間の米国法人が現地のイラク人より優遇された。


 パッカーが描いているのは、近年の保守主義を汚染している事態の縮図である。保守派はイデオロギー的に裏切られるのを恐れている。とりわけ無党派テクノクラート──専門家──は“リベラル・エスタブリッシュメント”の誘惑に乗りかねないと疑いの目を向け、信用をおいていない。結果として、政府、ジャーナリズム、シンクタンクのすべてに、二流の人材が溢れている。疑いの余地なく「健全」だというのが彼らの一番の長所だ。


 アメリカが数々の失敗をした最も単純な証拠は、2004年5月前後にはじまったワシントンの大掛かりな180度の方向転換である。軍の撤退は延期。部族会議*1を開催し、選挙を遅らせる決定は棚上げにされた。アメリカが任命した統治評議会は廃止。憎悪の的だった国連が迎え入れられ、新政府の創設と後援が要請された。ここ数ヶ月の方向転換は十把ひとからげに為されている。合衆国は部族のシェイクに賄賂を送る一方、「脱バース化」を止めて、スンニ派を政治プロセスに再参加させるべく全力をあげろとイラク政府に迫っている。


 今日のイラクはどうなっているか? スンニ支配地域で続く暴力のため、大半のアメリカ人は実際イラクで何が起こっているか理解できていない。失策が原因で、合衆国政府は性急で計画性のほとんどない権力委譲を余儀なくされた。委譲先はすでに組織化されているイラク人──クルド人と、シーア派宗教政党である。イラクは現在、3つの国とは行かないまでも、3つの土地に分かれている。北方ではクルド人が比較的良性の一党民主政を取り仕切っている。南では事態は安定しているが、数カ所ではシーア派の宗教団体が、たいていの場合自らの民兵を用いて支配を押しつけている。パッカーは分断を描写する。「グリーンゾーンの内側では、イスラムの役割や女性の権利について長時間の交渉がある……外側では、厳しい社会規範が自警団的統治によって強制されている」。そして中心部は、もちろん交戦区域だ。


 はっきりさせておこう。今日のイラクサダム・フセイン下のイラクより、はるかに良く、リベラルな場所だ。たいていのアラブ諸国より、進歩的な要素がある。分割統治と連邦制によって、絶対権力に対して本物の抑制と均衡を提供できるだろう。さらに、交渉、議論、選挙は積極的な効果をもたらしている。しかしイラクは明らかに多くの人々が望んだアラブ世界のモデル、インスピレーションとはなっていない。選挙の1日ごとに、混乱と犯罪、腐敗の数ヶ月が続く。事態は良くなっていくだろうが、数ヶ月どころか、何年もかかるだろう。そして代価は途方もなく高い──アメリカ人にとっても、イラク人にとっても。


 これらすべては不可避だった、合衆国は不可能な物事に取り組んだのだ。こうした考えが今ではお定まりの知恵になっているようだ。だとするなら、アフガニスタンをどう考えるのか? あの国は深刻に分断されている。30年(3世紀だという者すらいる)ものあいだ、機能する政府を持たなかったが、進歩的指導者のもとで1つにまとまりはじめている。200万のアフガン難民が徒歩で投票にやってきて、国へ帰ってきた(イラクは違う。イラクでは毎日人々が出ていく)。その理由は? アメリカは現地の軍と同盟し、治安を維持した。政治プロセスを国際社会に委任し、新植民地的占領という汚名から免れた(ロヤ・ジルガ、国会の開設とハミド・カルザイの後見をしたのは国連である)。日常的な軍事行動において、NATOとパートナーを組んだ。実際のところ、アフガン国軍を訓練しているのは米国と──フランスだ。そして、軍閥の力など、アフガニスタンの現実をある程度受け入れたうえで、ゆっくりと変化をもたらそうとしている。*2


 「イラク戦争はいつだって勝利できた」パッカーは書く。「今だってそうだ。まさにこの理由から、指導者たちの無謀さは許しがたい」。だが、単なる“無謀さ”ではない。ドリュー・アードマンがイラクで読んでいるべき本は『奇妙な敗北』ではなかった。彼の論文指導教官だったアーネスト・メイが最近出版したその“校訂版”ともいうべき『奇妙な勝利』ISBN:0809088541きだった。その本でのメイによれば、フランスの敗北はまったく不可避ではなかったという。敗因はフランスが犯したいくつかの重大な判断ミスだった。現状を予期するかのようにメイは論じる。「西洋民主政体は今日、1938-1940年のフランスと英国が有していた特徴の多くを示している。すなわち、傲慢、戦闘で命を危険に晒すことへの忌避、代用品としてのテクノロジーへの強い依存、そして相対的弱者による独創的攻撃に対し、予期も対処もおぼつかない拙劣な政府運営である。」何にもまして、メイは傲慢の致命的な代価を強調し、クロムウェルの訓令で本を締めくくる。クロムウェルは1650年スコットランド教会総会で次のように述べた。「キリストのはらわたにかけて、思い致してはくれまいか。諸君らも誤りを犯すことがありうるのだと」。ブッシュ政権の誰一人として思いを致すことはなく、それゆえにこそ、イラクは今日のような状況なのだ。


 ファリード・ザカリアはニューズウィーク国際版の編集者で、『民主主義の未来』ISBN:4484041197PBSの"Foreign Exchange"のホストも務めている。

*1:訳語不明。caucus

*2:ここ不明瞭な箇所あり。