スラヴォイ・ジジェク「誰ひとり悪党である必要はない」

諸手をあげて賛成する箇所と、そういうとこを嘲弄してもしょうがないんじゃないかな、それは左翼の駄目なところじゃ……って箇所が混じりあってて(とりわけ最後の3パラグラフ)、アップは止めようと思ったが、リベラル・コミュニスト十戒が愉快すぎたのでアップしてしまう。ティモシー・リアリー風のこれじゃないけど、Web 2.0的な物言いでいつも気になっている胡散臭さを突いてて面白い。
ただ、IT関係についてジジェクはあんまり知らなげ。ビル・ゲイツまわりの記述には首を傾げるし、そもそもオートポイエーシスなんて古いよ。ネットワークなんとかとかブリンクとか「創発」とか言わないと。Googleの"Don't be evil"についても一発かましてほしかったな。


誰ひとり悪党である必要はない
スラヴォイ・ジジェク

 2001年以来、ダヴォスとポルトアレグレはグローバリゼーションの姉妹都市となった。スイスの高級リゾートであるダヴォスには、経営者、政治家、メディア・パーソナリティら世界のエリートが厳重な警備のなか世界経済フォーラムに参加し、グローバリゼーションこそが最良の救済策であると、われわれ(と彼ら自身)を説得しようと試みている。一方、亜熱帯に位置するブラジルの都市であるポルトアレグレには、反グローバリゼーション運動のカウンターエリートが集い、資本主義グローバリゼーションはわれわれの不可避の運命ではなく、その公式なスローガンにあるように「もうひとつの世界が可能」であると、われわれ(と彼ら自身)を説得しようと試みている。だが、ポルトアレグレの同窓会はどうもその勢いを失ってしまったようだ。ここ2年は彼らの話を耳にすることがますます少なくなっている。ポルトアルグレのスターたちはどこへいったのか?

 スターたちの少なくとも何人かは、ダヴォスに移った。ダヴォス会議のトーンは今では主に一団のアントレプレナーたちによって定められている。彼らは皮肉にも「リベラル・コミュニスト」を名乗り、もはやダヴォスとポルトアレグレのあいだの対立を受け入れない。グローバル資本主義のケーキは食べても(アントレプレナーとしての成功)、なくならない(社会的責任や環境への配慮などの反資本主義的な目的を支持)、というのが彼らの主張である。ポルトアルグレは必要ない。代わりにダヴォスがポルトダヴォスになるのだ。

 このリベラル・コミュニストとは誰なのか? お定まりの容疑者たちだ。ビル・ゲイツジョージ・ソロスGoogleIBMIntel、EbayのCEOたち、加えてトーマス・フリードマンのような宮廷哲学者である。彼らの言では、本当の保守主義者とは権威、秩序、偏狭な愛国心についてバカげた信念を持つ旧来の右翼だけでなく、反資本主義の戦いを挑む旧来の左翼も含まれる。両者は新しい現実を無視して、影絵芝居の戦いを続けているにすぎないというのだ。このリベラル・コミュニストの新しい現実を指すニュースピークのシニフィアンは、「スマート」だ。「スマートであること」はダイナミックかつノマド的で、中央集権化されたお役所仕事に反対であることを意味する。中央権力に対して対話と協力を信頼する。ルーチンワークに対して順応性を、工業生産に対して文化と知識を、固定化されたヒエラルキーに対して自然発生的インタラクションとオートポイエーシスを重視するのだ。

 ビル・ゲイツは、彼が「摩擦なき資本主義」、ポスト工業社会、「労働の終わり」と呼ぶもののアイコンだ。ソフトウェアはハードウェアに勝ちを収め、若きナードは黒スーツの経営者に勝利しつつある。新会社の社屋では、外面上の規律はほとんどみられない。かつてのハッカーがシーンを席巻し、長時間働き、フリードリンクと緑ある環境を楽しむ。ここで根底にある考えは、ゲイツは価値をひっくり返すマージナルなフーリガンで、元ハッカーであり、乗っ取りを成功させ立派な議長として身を装っているというものだ。

 リベラル・コミュニストは競争の精神を甦らせたトップ・エグゼクティヴであり、別の言いかたをすれば、大企業を乗っ取ったカウンターカルチャーギークだ。彼らのドグマは新しい、ポストモダナイズされたヴァージョンのアダム・スミスの見えざる手である。市場と社会的責任は対極にあるのではなく、お互いの利益を目指して仲直りが可能なのだ。フリードマンが言うように、近頃ではビジネスをするのに、誰ひとり悪党である必要はない、というわけである。被雇用者とのコラボレーション、顧客との対話、環境への配慮、取り引きの透明性、これらが成功への鍵なのだ。オリヴィエ・マルニュイは、最近フランスの雑誌"Technikart"で、リベラル・コミュニスト十戒を列挙している──


1.汝あらゆるものをフリーで与え(フリーアクセス、著作権なし)、追加サービスにのみ課金せよ。そうすれば汝は富み栄えん。

2.汝物を売るなかれ。世界を変えよ。

3.汝社会的責任に関心を払い、シェアせよ。

4.汝創造的であれ。デザイン、テクノロジー、サイエンスに焦点を合わせよ。

5.汝すべてを語れ。秘密を作らず、透明性と情報の自由なフローのカルトを信奉し、実践せよ。全人類はコラボレートし、インタラクトしなくてはならぬ。

6.汝働くなかれ。9時5時の定時の仕事はせずに、スマートでダイナミック、かつフレキシブルなコミニュケーションに従事せよ。

7.汝学校に戻るべし。生涯教育に従事せよ。

8.汝酵素の役目を果たせ。ただ市場のために働くのではなく、社会的コラボレーションの新形態の誘因となれ。

9.汝貧しき者として死ね。必要とする者に財産を返せ。使いきれる以上の財産が汝にはあるのだ。

10.汝国家であれ。企業は国家とパートナーシップを組まなくてはならぬ。

 リベラル・コミュニストはプラグマティックである。彼らは教条的なアプローチを嫌う。今日では搾取された労働者階級など存在せず、ただ解決すべき具体的な問題があるのだ。アフリカの飢饉、ムスリム女性の苦しみ、宗教的原理主義者の暴力などだ。アフリカで人道的危機が起こったばあい(リベラル・コミュニストは人道的危機を好む。人道的危機は彼らの最良の部分を引き出す)、反帝国主義のレトリックを弄せずに、われわれは集まって最良の問題解決策を案出し、人々と政府と実業界とを共通の事業に引き込むべきだ。中央集権国家に頼る代わりに、自ら物事を動かし、クリエイティヴで型にはまらないやり方で危機にアプローチすべきなのだ。

 リベラル・コミュニストは次のような指摘を好む。国際的大企業がその企業内でのアパルトヘイト的ルールを無視する決定を下したのは、南アフリカアパルトヘイトに対する直接政治闘争と同じぐらい重要である。社内差別を廃し、黒人と白人に対し同じ仕事に同じ給料を支払うなど。これこそ政治的自由への闘争とビジネスの利益が重なりあう申し分ない事例である。なぜならその同じ会社が今ではアパルトヘイト後の南アフリカで成功できるからだ。

 リベラル・コミュニストは68年5月が大好きだ。若さのエネルギーと創造性の爆発! 〈5月革命〉が官僚主義の秩序を粉砕するのをみよ! 政治への幻想が消え去ったあと、経済生活と社会生活に〈5月〉が与えた勢い! 十分に年をとった者たちは彼ら自身、プロテストし、通りで闘ったのだ。今や世界を変えるために彼らは変わった。われわれの生活を本当に革命化するために。蒸気機関の発明と較べれば、どんな政治的蜂起もものの数ではないとマルクスは言わなかったか? そして、マルクスは今日ではこういうのではないだろうか──インターネットと較べて、グローバル資本主義へのプロテストなどなんになる?

 何にもまして、リベラル・コミュニストは真の世界市民である──悩める良き人々なのだ。彼らはポピュリスト的な原理主義と、無責任で強欲な資本主義企業に悩む。彼らは今日の問題の「より深い原因」を見てとる。大衆の貧困と希望のなさが原理主義のテロをはびこらせているというのだ。彼らの目的は金を稼ぐことではなく、世界を変えることだ(そしてその副産物としてもっと金が入る)。ビル・ゲイツはすでに個人としては人類の歴史で最大の寄付者であり、教育や、飢えとマラリアに対する戦いなどに何億ドルも注ぎこみ、隣人への愛を示している。落とし穴は、何もかもを与える前に、奪う(あるいはリベラル・コミュニストの言い方を借りれば、クリエートする)必要がある点だ。正当化は次のように続く。人々を助けるためには、そのための手段が要り、私的/個人的事業こそが群を抜いてもっとも効果的な方法であることを教えてくれる経験──つまり、集権国家的、集産主義的アプローチの惨憺たる失敗の認識──が必要である。国家は、彼らのビジネスを規制し、過剰な税を課すことによって、国家自身の活動が公に目的としていること(マジョリティの生活を良くする、困窮する人々を助ける)を掘り崩しているのだ。

 リベラル・コミュニストは単なる利潤のマシーンにとどまりたくない。その生活が深い意味を持つことを望む。オールドファッションな宗教には反対で、スピリチュアリティや告白なしの瞑想(仏教が脳科学を予見しており、瞑想の力は科学的に測定可能であることは周知の事実である)には賛成する。彼らのモットーは社会的責任と感謝だ。社会が彼らに驚くほど良くしてくれ、才能を発揮して富を築くのを許してくれたと何よりも認め、彼らは社会に何かお返しをし、人々を助けるのが自らの義務だと感じている。この善行がビジネスでの成功を価値あるものにするのだ。

 これは完全に新しい現象ではない。アンドリュー・カーネギーを思い起こしてみよう。カーネギーは鉄鋼労働組合を鎮圧するために私的軍隊を雇い、その後、教育、文化、人道の大義にその富の大部分を分配した。これはカーネギーは鋼鉄のような男だったが、実は黄金の心を持っていたという証明なのだろうか? 同様のやりかたで、今日のリベラル・コミュニストも、一方の手で鷲掴みにしたものを、他方の手で手放している。

 アメリカの店ではチョコレート味の下剤が売られていて、逆説的な指令で宣伝がなされている──「便秘だって? このチョコレートをもっと食べよう!」 つまり、それ自体便秘を引き起こすようなものをもっと食べろというわけだ。チョコレート下剤の構造は、今日のイデオロギー的光景のあちこちで見出すことができる。これこそソロスのような人物に反発をおぼえる理由なのだ。ソロスが表しているもの、それは無慈悲な金融的搾取とその反作用──つまりとどまるところを知らない市場経済のカタストロフ的な社会的帰結に対する人道的な苦慮──の結合物である。ソロスの日常は肉化した嘘そのものだ。労働時間の半分を金融投機に充て、もう半分を「人道的」活動(ポスト共産主義諸国の文化的、民主的活動を財政的に支援する、エッセイや本を書く)に捧げる。ビル・ゲイツの2つの顔は、ソロスの2つの顔とまったく同一だ。一方でゲイツは残酷なビジネスマンで、競争相手を粉砕するか、買収し、実質的独占を目指す。他方では偉大なるフィランソロピストであり、「人々に食べものが十分にないなら、コンピュータを持ってなんになる?」と語るのを常としている。

 リベラル・コミュニストの倫理によれば、利益の容赦なき追求は慈善活動によって中和される。慈善活動はゲームの一部であり、根底にある経済的搾取を覆い隠す人道的な仮面である。先進国は絶えず非先進国を(援助や借款で)「助け」ることで、根本的な論点、つまり第三世界のひどい状況は彼らの共犯関係の結果であり、したがってその責任があるという論点を避けている。「スマート」と「非スマート」の対立については、アウトソーシングがキー概念だ。生産の(不可欠な)暗い面──規律づけられた階層的労働、環境汚染──は「非スマート」な第三世界(あるいは第一世界の目に入らない場所)に輸出するのだ。全労働者階級を目に入れずにすむ第三世界のスウェットショップに移すのが、リベラル・コミュニストの究極の夢である。

 幻想は持つべきではない。リベラル・コミュニストは、今日の真に進歩的な闘争すべての敵である。他の敵すべて──宗教的原理主義者、テロリスト、腐敗し不能率な国家官僚制──は一地域の偶発的な状況に依存している。まさにグローバルシステムの二次的な機能不全すべてを解決したいと願うからこそ、リベラル・コミュニストはシステムの誤りが直接的に具現化したものなのである。人種差別、性差別、宗教的蒙昧主義と戦うためにリベラル・コミュニストと戦略的同盟を結ぶのは必要だろうが、彼らが何を表しているか正確に記憶しておくことが重要である。

 エティエンヌ・バリバールは『大衆の恐れ』("La Crainte des masses")で、今日の資本主義における過剰な暴力の、対極的であるが相補的な2つのモードを区別している。グローバル資本主義の社会的条件(ホームレスから失業者までの、排除され不要とされた個人の自動的な出現)に内在する客観的(構造的)暴力と、新来のエスニックかつ/あるいは宗教的(つまりレイシスト的)な原理主義の主観的な暴力の2つである。リベラル・コミュニストは主観的な暴力に対しては戦うことができるかもしれないが、彼ら自身構造的暴力のエージェントであり、主観的暴力が爆発する条件を作り出している。教育基金に数百万ドルを与えたソロスは、金融投機によって数千人の生活を破滅させ、そうすることによって彼が糾弾する不寛容が勃興する条件を作り出しているソロスと同じソロスなのだ。

ジジェクといえば、この"Are we in a war? Do we have an enemy?"が最高だった。ジジェクの本は何冊か持っているが、実のところ読み通せたことはないし、パラパラ読んでたいてい煙に巻かれたようなアンヴィバレントな読後感を抱く(いや面白いんだけども)。ジジェクがマイク・デイヴィスを引用したときなど「思想界の2大山師が共闘!」とつい笑ってしまった。しかし、上の記事に関してはもう全面降伏。本当はこっちを訳そうと思ったのだが、もう訳されているかもと思ったのと*1、長すぎて歯ごたえがありすぎるので保留。

*1:イラクISBN:4309243134『「テロル」と戦争―“現実界”の砂漠へようこそ』ISBN:4791760239