デイモン・ラニアン

ウォマックの"Going, Going, Gone"の背表紙の評に"Like Damon Runyon and James M. Cain, Jack Womack has a gift for inventing oddball language..."とあった。デイモン・ラニアンについては聞いたことがなかったので調べたら、知らないのが恥ずかしいぐらいの伝説級人物だったので以下にメモしておく。ここここを主に参照した。

デイモン・ラニアン(1884-1946)

アメリカ人。短編作家。新聞記者。アル・カポネベーブ・ルースジャック・デンプシーの友。

彼の名は禁酒法時代のニューヨークに現れたロードウェイの世界を描いた短編によって広く知られている。短編においてラニアンはギャンブラー、ケチな盗っ人、俳優、ギャングスター──彼らはほとんど全員が"Nathen Detroit","Big Jule","Harry the Horse","Good Time Charlie","Dave the Dude"などの通り名で呼ばれた──の生活をブロードウェイのスラングと、常に現在時制を用いたスタイルで活写した。

デイモン・ラニアンは1884年カンザス州マンハッタンに生まれ、コロラド州プエブロで育つ。父親が小さな町の新聞を出版していて、デイモンは若いときから家業の手伝いを始めた。母親は早くに亡くなり、第六学年で公立学校から放校されると、本格的に家業に身を入れる。すでに15歳のときには「プエブロ・イブニング・ニュース」で働いており、すぐに一人前のニュース記者となった。

1910年、ラニアンはニューヨークへ行き、ハースト系の日刊紙「ニューヨーク・アメリカン」で働きだし、以後10年間同紙でボクシングとベースボールを担当。また、連載のコラム"The Mornin's Mornin"のネタを求めて、ブロードウェイ界隈の人士とのつき合いも始まる。1920年代には特徴的な「歴史的現在」を多用するスタイルを確立。ラニアンの暗黒街を描いたストーリーは大人気を博し、彼の連載"As I See It"はハースト系の新聞で大きく配信、最盛期には1000万人以上の目に触れることとなった。悪名高いギャンブラーであり、ブロードウェイのいかがわしい連中と親しく交遊したラニアンは、タフでシニカルな記者の典型像として不朽の存在となった。

1930年代の終わりまでにはラニアンは全国的著名人となり、「アメリカ第一のジャーナリスト」とまで呼ばれるようになる。毎夜リンディーのレストランに友人、同僚を集め、社交にいそしんだ。1944年には喉頭ガンの手術で会話ができなくなるが、集まりは変わらず続けられた。2年後の1946年、ラニアンは死に、灰は飛行機でブロードウェイに撒かれた。

作品と影響

短編のいくつかはここで読める。邦訳は新書館から短編選集が出ている。
1932年、ラニアンのブロードウェイを舞台にした話を集めた短編集"Guys and Dolls"(『野郎どもと女たち』)が出版され、商業的成功を収める。1950年にはその内の一編"The Idyll of Miss Sarah Brown"がミュージカル化され、ブロードウェイで1200回以上上演という大ヒットをとばす*1。1955年にはマーロン・ブランドジーン・シモンズフランク・シナトラ出演で映画化(IMDbのリンク)。
1920年代、ラニアンが報じたスナイダー/グレイ殺しはジェイムズ・M・ケインの『殺人保険』のベースとなり、ケインの小説はビリー・ワイルダーによって映画化された(邦題『深夜の告白』)。

1940年代にはラニアン自身も脚本家やプロデューサーとしてハリウッドで活動。生前に20弱の短編と1つの戯曲が映画化されている(IMDbへのリンク)。

いくつかの引用

ラニアンの文章スタイルを確認するために有名な文をいくつか引用してみる。
"The race is not always to the swift, nor the battle to the strong, but that's the way to bet."
"Always try to rub against money, for if you rub against money long enough, some of it may rub off on you."
"I long ago came to the conclusion that all life is 6 to 5 against."

*1:最近またブロードウェイでやったはず。忘れた。