Emmanuel Jal

Emmanuel Jalは現在25歳。ケニアでもっとも人気のあるラッパーで、国際的な成功を得るのも間近だといわれる。セカンド・アルバムのレコーディングのためロンドンへ飛ぶ準備をしており、そこで映画監督のトニー・スコットリドリー・スコットと会う約束をしている。Jalの養母Emma McCuneについて話をしてほしいというのだ。Emmaは英国人で、エイドワーカーとしてスーダンで活動していたが、反乱軍SPLAのリーダーRiek Macharと恋に落ち、結婚した。彼女の物語は2冊の本になり*1、"Emma's War"(IMDbのリンク)のタイトルでトニー・スコット監督、ニコール・キッドマン主演で映画化の予定だ。
Emmaと出会ったとき、Jalは13歳。少年兵として既に数年にわたってSPLAのもとで働かされていた。他の多くの少年兵と同様、Jalエチオピアの国連難民キャンプから誘拐され、戦闘に参加することを強制された。AK-47の撃ちかたを覚えたときはまだ8歳にもなっていなかった。
この恐怖の日々の典型的なエピソードとして、Jal南スーダンのJuba攻撃の日を思い出す。「おれのような少年兵が何千人といた。少年兵の役目は地雷原を突っ切って敵陣までたどりつき、政府側の防御を弱めることだった。少年兵のほうが体重が軽いし、その気になれば早く走れるので、生き残るチャンスは大人より高いからだ。おれもそうした少年兵の1人だった」
SPLAが分裂したとき、Jalは400人の仲間とともにMacharの側についた。3ヶ月にわたるブッシュの旅で飢えと乾きのため大部分は死に、多くが生き残るために仲間の死体を喰うところまで墜ちた。ついに到着し、Emmaと出会ったとき、生存者はJalを含め12人だった。
そのときカナダの援助団体Street Kidsで働いていたEmmaは、Jalの若さに驚き、反乱軍と交渉、Jalの除隊を認めさせた。Jalに教育を受けさせることにし、最終的には正式に養子として迎えた。
EmmaはすぐにJalの脱出工作をし、ケニア行きの援助物資を運ぶ飛行機に隠して連れ出した。ケニアでも教育費はEmmaが出し続けた。Jalは言う。「本当の母親みたいだった。どこへでも一緒に連れていって、学校にまでいかせてくれるつもりだったんだ」
そうした矢先の1993年、Emmaは交通事故でこの世を去る。再び独りぼっちになった14歳のJalは数ヶ月のあいだ抜け殻のようだった。だがEmmaの友人がJalの保護者として教育を引き継いでくれた。そのEmmaの友人の1人が言う。「Jalはすばらしい人間に成長しました。とても鼻が高いですよ。自分はいわばJalの名誉代父なわけですしね。今まで出会ったなかでJalほど利他的な人間はほかにいません」
Jalは今週ロンドンでスコット兄弟と会うほか、元少年兵の問題について議会で証言する予定である。新しいアルバムにはスーダンのスターAbdul Gadir Salimと共作するトラックが含まれ、売り上げはアフリカの平和を推進するための基金として使われる。
(ほぼGuardianのこの記事の翻訳。他にBBCの記事も参照した。)

*1:映画の原作でもあるDeborah Scrogginsの"Emma's War: An Aid Worker, a Warlord, Radical Islam, and the Politics of Oil--A True Story of Love and Death in Sudan"ISBN:0375403973、Emmaの母親Maggie McCuneの"Till Sun Grow Cold"ISBN:0747275394