植民地前後の南北の疎隔

イギリスは植民地化を行う前に北部の帝国を武力で平定していたが、直接支配を行うには兵力も行政官も不足していた。そのためイギリスは間接統治政策を採ることを余儀なくされ、北部の封建的体制は維持された。北部の支配階級は体制を維持するため、変化と進歩に徹底して抵抗した。このため北部では普通教育の普及が大幅に遅れることとなった。1960年にナイジェリアが独立したとき、5000万の国民の半分以上を抱える北部の中等学校の数は、南部の842校に対し、わずか41校しかなかったという。
一方、普通教育の唱道者たる宣教師たちの流入を許した南部では、やがて教育に対する激しい熱意が巻き起こった。その結果1967年に東部地域がナイジェリアから離脱するときには、ブラックアフリカのどの地域よりも多数の医師、法律家、技術者を抱えていた。
このようにイギリスの植民地化から独立までの60年間、南北の宗教、文化、あるいは技術、教育上の格差は縮まるどころか広がる一方だった。特に教育格差は重大であり、北部は近代社会に必要な人材を自分たちで賄い得なかった。このため北部のホワイトカラーの仕事は移住した東部人のイボ族が多数を占めることとなり、この事実が大きな不満を産むことになる。また北部側の意向で移住した南部人はザボンガリス(外国人街)という一種のゲットーに住まわされ、北部人との接触は最小限に留められていた。