独立前の混乱

こうした北部と南部の著しい格差にもかかわらず、イギリスはなんの手も打たず、闇雲に統一へ突き進んだ。1914年イギリスはナイジェリアを形式上は中央集権国家として統一する。だが実際は北部に手をつけず、行政も分離したままだった。
第二次大戦後、イギリスはナイジェリアの独立へ向けての努力を開始。北部側ははじめ統一を忌避し、分離への要求をはっきりと口にしていたが、この統一問題をイギリスに対する外交カードとして使えることに気づく。以降何度か見られるように、北部は分離するという脅しをイギリスにかけ、イギリスから譲歩を引き出していくのだ。こうして1947年のリチャーズ憲法では連邦制が発布され、ナイジェリアは3つの地域からなる連邦国家となった。
北部が南部の影響を嫌悪し、分離を望んでいたにもかかわらず、実際に決して分離しなかったのには現実的理由があった。当時の北部指導者の言によれば、複雑な国境線で関税を徴収することの困難と、南部を失えば北部は内陸国化し海に出ることができないという理由だ。このため、第4次憲法が発布された1954年における北部の見解は「各地域に最大限の行動の自由を与え、中央政府の権限を絶対最小限に抑える体制」という形に落ち着いた。
だが、この体制では北部に居住する東部人に対する不満は結局解消されず、すでに1953年の時点でイボ族に対する虐殺が起こっており、のちの悲劇の予兆となっている。
こうして内部に火種を抱えたままナイジェリアは1960年独立する。