植民地以前

ナイジェリアは大ざっぱに言えば四角形をしている。その南部約3分の1は熱帯雨林地帯であるが、北に向かうにつれ木はまばらになり、最終的には乾燥した半砂漠地帯になっている。このナイジェリアの面積の約5分の3、半砂漠地帯の北部の多数を占めるのがハウサ族である。この北部地域には北のサハラ砂漠から侵入したフラニ族によってイスラムがもたらされ、19世紀はじめには北部のほとんどがイスラムを奉じる帝国のゆるやかな支配を受けていた。一方、南部地域はまず南北を走るニジェール川によって2つに分断される。この東側がイボ族が有力な東部地域、後のビアフラである。残りの西側は更に約2:1の割合で東西に分けられ、大きい方が西部地域、小さい方が中西部地域とされる。この2つを合わせて西部地域とされることもあるが、ここで優勢を誇っていたのはヨルバ族であった。*1
現在ナイジェリアと呼ばれている一帯には、15世紀中ごろから奴隷商人が姿を現しはじめた。ポルトガル人を先達とする彼らヨーロッパ人は奴隷貿易により大きな財をなしたが、地元アフリカの王朝にも仲買人として巨利を得る国があった。*2やがてイギリスで1807年、奴隷貿易が禁じる法律が成立。イギリス人商人は奴隷以外の産物の取引を求めて内陸部へ進出していく。当初植民地化に乗り気ではなかった英本国政府も、ベルリン会議以降強い姿勢を取りはじめ、最終的に1898年の英仏協定によって一帯を新たな植民地として手に入れることとなった。

*1:もちろん更に膨大な数の少数民族が存在するが(その数250とも言われる)、ここでは見通しを良くするために略。

*2:これを後のイボ族迫害の理由と主張する向きもあるが、一因ではあるにせよ、主要な原因とは言えないと思う。奴隷の斡旋者として有名な王朝は東部だけではなく西部地域のラゴス周辺に存在したものもあるからだ。ただ南部/北部の分断を強めた面はあると言えるだろう。