第1章 1「退廃せる勇者の館」

ガブリエーレ・ダヌンツィオの簡単な伝記。ダヌンツィオの名前は辞書的なレベルで知っていたけど、「どうせ世紀末の青白いデカダンだろう」と決めつけて大して興味も惹かれなかった。だが……
「16歳にして詩集を出版」、「秘儀的な審美主義に基づく詩作」、「『快楽』・『イノセント』・『死の勝利』などのデカダンス小説により“世紀末”文学の代表者として知られるようになった」──ここまでは自分のイメージどおりのダヌンツィオ。
また、驚くべき女遍歴の数々、ニーチェから拝借した超人思想。あるいは「ヴィットリアーレ・デッリ・イタリアーニ(イタリア人の栄光)*1」と名付けられた自ら設計した怪異かつ壮麗な館、マリオ・プラーツによって「デカダン的嗜好の記念碑的表現」と宣せられる館──この館の描写も相当面白かったにせよ、まあ、デカダン詩人のイメージを強めるだけともいえた。だが驚いたのは以下。
第一次世界大戦勃発時、ダヌンツィオはすでに50歳を越えていた。が、中立を宣言したイタリアに対し、彼は断固たる参戦の声をあげる。これに呼応するかのように「輝ける五月」と称される大衆運動が爆発、左右を問わず急進派が参戦を要求した。
イタリアが参戦するやいなや、詩人は志願して前線へと向かう。潜水艦に乗り込み、あるいは爆撃隊の隊長として行動。1916年1月には搭乗中に撃墜され、一命は取り留めたものの片目を失う羽目になる。だがこの男はかえって意気盛んに戦闘に突入していく。1917年には第四編成軍の第八爆撃隊長に任命され、ボーラ港爆撃をはじめ数々の軍功をたてる。
特に詩人の名を高らしめたのは自らの指揮によるウィーン“爆撃”である。詩人はウィーン上空を低空飛行すると、爆弾の代わりに「我らは破壊のために戦わず、我らは殺戮のために戦わず」と大書されたビラをばらまいた。この攻撃に使われた複葉機はヴィットリアーレの館に飾られている。
第一次大戦終結し、一応イタリアは戦勝国とはなったが、戦争はイタリアにインフレと荒廃しかもたらさなかった。さらに追い打ちを掛けるように、参戦に先立って英仏間と結んだ密約、イタリア系住民が多数を占めるフィウーメやダルマツィアの割譲の約定が反故にされた。
この裏切りに対し、ナショナリスト、さらに結成されたばかりの戦闘的ファッショらが怒りの声を挙げた。その中心にはダヌンツィオの姿があった。
1919年9月11日、ナショナリストファシスト未来派、突撃兵、脱走兵ら約千人が突如フィウーメに向けて進軍を開始。率いるのは陸軍中佐の制服を身につけた詩人。
12日未明、イタリア正規軍がこの狂気の軍団を制止しようとするが(「イタリアを破滅させるおつもりですか?」)、詩人の弁舌がこれを退ける(「発砲するならまず私から撃ちたまえ」)。いまや3000人以上にふくれあがったダヌンツィオ軍は12日正午頃、フィウーメ市に入場。
ダヌンツィオは以後1年以上にわたって「王」としてフィウーメに君臨する。
結局ユーゴスラビアとイタリアの間でラパッロ条約が結ばれ、イタリア政府が市の明け渡しを要求。陸海をイタリア軍に包囲された詩人は怒り、イタリアに対し宣戦布告。もちろん戦力差はいかんともしがたく、詩人は2日後、降伏宣言をする。だが不思議なことに、この国家反逆者に対しイタリア政府はなんの罰も与えなかった。
詩人がヴィットリアーレに隠棲するのはこの後である。
──ダヌンツィオ様、今までの侮りをお許しください。orz

*1:この写真とか内部の雰囲気がわかりやすいかも。