トマス・ナッシュ

ウォマックがアンビエント語の創造に際して参照した『悲運の旅人』とその著者、トマス・ナッシュについて調べ中。

1594年、世に現れた『悲運の旅人』(リンク先でダウンロードできる)は英語で書かれた初のピカレスク小説*1とみなされている。同時に英国初の歴史小説ともいわれ、歴史的事実とフィクションを混ぜ合わせたスタイルの点でもオリジナルな作品だ。主人公はジャック・ウィルトンという名の騎士見習い(page)。彼は諸外国を遍歴しながら高貴卑賤を問わぬ多種多様な社会集団と接触、悪戯と冒険の旅を続ける。また、ナッシュにはある種の歴史的記録を残すという意図もあり、そのため当時の知的、宗教的動向も描写されている。その目的に従い、エラスムスやトマス・モア、ルターやコルネリウス・アグリッパらが舞台に登場する。

ナッシュは当時の平均的な文人として出発したが、生涯の後期に当時の文学的因習から脱し、口語体的文体を採用するに至る。その結果、ナッシュの散文は簡潔、軽妙、イメージの喚起力に富んだものとなっている。彼は新語を大胆に創りだし、荒削りな複合語を好んだ。*2

ナッシュの生涯もジャック・ウィルトンと同様、曲折と笑いに彩られたものだったようだ。多くのエリザベス朝の文人はその熱情的な作品に劣らぬ激しい生活を送り、若くして死んだ。例えばナッシュの友人でエリザベス朝の代表的劇作家の1人、クリストファー・マーロウは政府の密偵として働いていたともいわれ、酒場での喧嘩(謀殺説もあり)で30歳になるかならないかのうちに世を去った。ナッシュもまた33歳という若さで亡くなっている。そもそもナッシュを描いた絵としては上掲の囚人として足環をはめられている諷刺画しか残っておらず、この事実がある意味でナッシュの生涯を象徴している。
トマス・ナッシュは1567年、牧師ウィリアム・ナッシュの第3子としてイングランド東部のローストフトで生まれた。14歳のとき、当時の文人の多くと同じく、ナッシュはケンブリッジに進学。以後21まで学業を続けるが、学問はあまりナッシュの性に合わなかったようだ。また父が1587年亡くなり、金銭上の問題が発生したともいわれる。最終的に1588年のおわり、ナッシュはケンブリッジを辞め、ロンドンへ出る。

ロンドンでナッシュは彼同様文筆で身を立てようとするケンブリッジ出身の奇特な人士たち──当時は牧師か学者がお定まりのキャリアだった──と交流を深める。上で名を挙げたクリストファー・マーロウと、ナッシュ同様の多芸多才な書き手、加えて大酒飲みのロバート・グリーンらである。文筆業者の地位は不安定であった。その頃の英国に著作権は存在しておらず*3、よきパトロンを得る僥倖に恵まれなくては貧窮に陥った。そしてよきパトロンとは極めて希少な存在であり、上の3人も必然的に貧乏暮らしを余儀なくされる。

以降ナッシュは生涯に残された十余年を劇作からソフトポルノ*4にいたる多種多様な作品をものして糊口をしのいでいく。ナッシュは嘲笑と諷刺に特に才能をみせ、自由闊達なスタイルと内容で書かれた政治的・社会的パンフレットでもっとも魅力を発揮した。その内容は現在の基準で見ても十分ユニークなものである。1592年の"Pierce Penilesse"は主人公の“文無しのピアース”が報われぬ才能と刻苦精励を苦に悪魔と契約する学究──つまりナッシュ本人──を描いた作品。"Have with you to Saffron-walden"では長年の論敵であったゲイブリエル・ハーヴェイに対して、現実以上にふさわしい幼年時代を創案し、家庭教師からの学習進展報告という形式で提示した。*5

ナッシュの鋭い観察眼と諷刺の手腕は貴顕の士や権力者に対しても時折り向けられ、その都度トラブルにはまりこんだ。1593年、宗教的パンフレット"Christs Teares over Ierusalem"を書いたナッシュは、ロンドン市当局によってニューゲート刑務所に収監される。このときはロバート・ケアリー伯爵の取りなしで釈放されたが、ナッシュの幸運はこれかぎりだった。

1597年、ナッシュはエリザベス朝演劇の重要人物の今1人、ベン・ジョンソンと諷刺劇"The Isle of Dogs"を共同執筆する。劇は破壊的な反響を引き起こした。あまりに強烈な憤激を引き起こしたためか、現在では劇の内容すら伝わっていない。直ちに上演は禁止、ロンドンの“全”劇場が1ヶ月にわたり閉鎖された。出演俳優全員は牢に入れられ(兼俳優だったジョンソン含む)、ナッシュにも拘引命令が出されたが、彼は辛くもロンドンから逃げおおせた。ただ急な出立だったため手持ちの草稿や著作は置いていかざるを得ず、当局に差し押さえられ破棄された。

だが、物事の明るい面、笑いに満ちた諷刺的側面を決して見失うことのないナッシュは、逃亡先の町ヤーマスを讃えるパンフレット"Nashes Lenten Stuffe"を書く。その中でナッシュはヘーローとレアンドロスの悲話のシニカルな語り直し、教皇とニシン(ヤーマスが漁港のため)の出会いが果たした世界史的役割などを変わらぬナッシュ調で綴っている。

ナッシュの悲運は続いた。16世紀が終わろうとするころ、老いた女王の後継をめぐる権力闘争が熾烈化するにつれ、政府による政治的文書への禁圧は頂点を極めた。1599年1月1日、ナッシュの著作は1つ残らず禁書とされた上、印刷業者に対して現存する在庫の焼却が命じられる。これ以降のナッシュの活動についてはまったく記録に残っていない。かつてのナッシュの学舎ケンブリッジで演じられた劇での言及から、1601年までには死んでいたことがわかるのみである。
(主に以下のページをまとめたもの。

*1:しかし、自分がイギリス文学を勉強したときはリチャードソンの『パメラ』が英国初の小説だと習った気もしたが……

*2:"piperly pickthanke"や"burlyboned butcher"のような表現から、ウォマックのアンビエント語に与えた影響は見て取れるだろう。

*3:著作権の成立には1709年の「アン制定法」(statute of Anne)を待たねばならなかった。

*4:"The Choise of Valentines"、あるいは一般に"Nash's Dildo"として知られた詩。

*5:ここで唐突にSFトリヴィア。ジェイムズ・ティプトリーJrの"Brightness falls from the air"、このタイトルはナッシュの劇"Summer's Last Will and Testament"の一節に由来。