リチャード・ロービア『マッカーシズム』ISBN:4003422015

『ベスト&ブライテスト』を再読して、やっぱマッカーシズムについて調べなきゃいかんなと思い読書。
しかし読んでわかったが、この本はマッカーシズムの本というより、マッカーシー本人の人物評伝といった趣きの本なので、期待から少しはずれた(アジア専門の外務官僚がどんぐらいやめたかとかを知りたかったのに)。しかし面白かったよ。だいたいアリストパネス(「騎士」)の引用ではじまるような本を自分が嫌いになれるはずがない。

ジョゼフ・マッカーシーが1950年、ウェストヴァージニア州ホイーリングでの演説で「ここに205人の名を記したリストがある。この者たちは共産党員であることを国務長官が承知しているにもかかわらず、今なお国務省に勤務を続け、政策立案に携わっているのだ」と発言したとき、マッカーシー自身もアメリカにこれほどの大激震を引き起こすとは思っていなかったことは間違いない。そもそもこのときの演説の原稿すら残っていないようだし*1、後の反響を理解していれば、共和党婦人クラブのような場所ではなく、もうすこし華々しい舞台を用意したはずだ。なんにせよこのホイーリング演説から、1954年に上院非難決議を受け失脚するまで、マッカーシズムアメリカを席巻した。
情勢はマッカーシーの味方だった。1933年以来政権を民主党に奪われたままだった共和党は、ついに政権奪回の切り札を発見したと考えた。大半の者はマッカーシーの非難が正しいとは思っていなかったが、ある者は黙認し、ある者は赤狩りの戦列に加わった。実際、この戦術は効果があった。小委員会を組織し、マッカーシーのホイーリング演説を事実無根と退けた民主党の長老議員タイディングスは議席を奪われた。他に7人がマッカーシーの手によって政界から追い出された。国務長官ディーン・アチソンと前任者のジョージ・マーシャルは猛攻撃を受け、倦み疲れたマーシャルは政界から引退した。トルーマン政権は反共の姿勢を誇示せざるを得なくなり、ジョン・フォスター・ダレスを登用し、攻撃を受けた外務官僚を解任したが、ついに1952年、共和党アイゼンハワーに政権を奪われた。
また、マッカーシーの発言を後押しするような状況もあった。同じころアルジャー・ヒスやローゼンバーグ夫妻がソ連のスパイとして訴追されていた。ソ連のスパイ網が政府内にあったことも確かであり、大規模な忠誠調査がマッカーシー登場以前に既に行われていた。1949年には共産化によりアメリカは中国を“失った”。朝鮮戦争が近づいていた。
こうした情勢の中登場したマッカーシーは国民に大きな支持を受けた。疲れを知らぬ反共の闘士、愛国者であると考えられたのだ。マッカーシー時代の晩期、1954年のギャラップ調査では米国民の50%がマッカーシーに「好感」を持ち、21%が白紙、意識的反対は29%のみだった。
では、マッカーシーはたまたまタイミングよく登場したオポーチュニストに過ぎないのだろうか? ある意味ではそうだ。だが、同様に反共を旗頭にした者たちはたくさんいたのに、華々しい成功を収めたのはマッカーシーだけである。その理由はなんだろうか?
ロービアの本からうかがえるのは主に3つである。

  1. 恐れを知らぬ大胆な嘘つきぶり
  2. マスコミ操作の才能
  3. ある種のアメリカ人に訴える人柄

──恐れを知らぬ大胆な嘘つき。例えば上記のホイーリング演説が真実だとすると、国務長官が国家反逆に関与していたことになる重大な発言である。まともな神経の人間、いや合衆国上院議員が事実に基づかないでこんな発言ができるだろうか? マッカーシーにはできた。万事この調子だった。上院議員になる前、海兵隊時代にも、巡回判事時代にも嘘で道を切り開いてきた。しかもマッカーシーには、嘘をついているというはっきりとした意識すらないのではないかと疑わせるようなところもあった。マッカーシーの得意業の1つは一緒に嘘発見器にかかれと相手に詰め寄ることだった。
──マスコミ操作の才能。マッカーシーは記者たちの操縦術を心得ていた。「記者たちの締切時間を掴み、記者たちがいつ記事を欲しがり、いつ餌を撒けばいいか嗅ぎ取っていた。告発内容をチェックできるぎりぎりの時間を呑み込んでいた」*2。手口の一例をあげてみると、マッカーシーは夕刊記事の締切り寸前に「共産主義分子について明日重大発表を行う」と宣言する。記者としてはニュースを逃すわけにはいかないので記事を書かざるを得ない。実際明日“重大発表”があるかどうかは状況次第である。都合のいいネタが調達できれば発表すればいいし、なければほっとけばいい。記者たちも安易な特ダネに惹かれ、ある意味で共犯者となった。
──ある種のアメリカ人に訴える人柄。マッカーシー上院議員らしいところはまるでなかった。元海兵隊員で、言動は直裁、下品、猥雑だった。ある将軍の「脳天をぶち割ってやる」と脅したという噂が立っても、本人は一向に気にしなかったし、そうした噂が立つのも無理はなかった。不思議と女関係の話はなかったが、飲むのと打つのは大好きだった。活力に溢れた男だった。酒を大量に飲んでも翌日に響くこともなく、記者会見で長時間にわたって怒鳴り声をあげ、告発を繰り返すことができた。また、うち解けた雰囲気を作り出し、相手の懐に入り込む独特の才能があり、彼の敵対者もいつの間にか酒を一緒に酌み交わしている結果になることもあった。
敵味方双方が認め得るマッカーシーの美点として、決して仲間を売らなかったということがある。政府内にはマッカーシーに機密文書を提供する者もいたが、その名は決して明かさなかった。
ある意味ではこの「仲間を売らず、見捨てない」美点がマッカーシーの没落を導いた。マッカーシーの部下にロイ・コーンとG・デイヴィッド・シャインという、いわばローレルとハーディのような迷コンビがいた。彼ら2人はヨーロッパ巡業忠誠調査旅行をおこない、米国際情報局と西ヨーロッパの諸大使館に重大な損害を与えた。
だが朝鮮戦争の勃発により、シャインは徴兵されることになった。シャインはコーンに泣きつき、コーンはマッカーシーに泣きついた。マッカーシーはコーンに陸軍の忠誠調査か何かをさせて、一般の兵役を免除させようと軍部に圧力をかけはじめた。対立は最終的に陸軍対マッカーシー公聴会に発展、公聴会の模様はテレビで放映され、マッカーシーの無軌道ぶりが国民の大半にも明らかとなった。
1954年12月、上院はマッカーシー非難決議を採択した。これがきっかけとなり、マッカーシーは急速に影響力を失っていく。非難決議の3年後、マッカーシーは世を去った。

*1:なので、上の演説の内容や数字にも諸説ある。

*2:ハルバースタム『フィフティーズ』より。