サッチャー元首相の息子、赤道ギニアのクーデター容疑で逮捕(asahi.com)

うーむ、2・30年タイムスリップしたようなニュースだ。フォーサイスとかの話そのまま。と、Guardianちゃんと読んだら、傭兵ってExecutive Outcomesのことだった! で、そのEOの設立メンバーの一人、元SASのサイモン・マンもジンバブエで裁判を受けてて、サッチャーと繋がりがあったことが疑われているらしい。よく流れがわからんな。面白そうだからちゃんと調べて書こう。

赤道ギニア現況(Wikipedia

カメルーンガボンに挟まれた貧しい小国(北海道の3分の1)だった赤道ギニアは、首都マラボのあるビオコ島沖で1990年代半ばから石油採掘を開始、アフリカ第3の産油国として空前の成長を遂げている。
現大統領のテオドロ・オビアン・ヌゲマ・ヌバソゴは1979年に甥のマシアスを殺害し軍事政権を樹立、以来実質的独裁を敷く。2002年には野党党首を含む140人をクーデターを企てたとして拘束、その後の大統領選では100%近い得票率で勝利した。今年7月には国営ラジオで「大統領は、いうなれば国の”神”である」と宣言。

クーデターの経過

今年3月、ジンバブエのハラレ空港で、64人の”傭兵”を乗せた航空機は、赤道ギニア大統領に対しクーデターを企てたとして拘束。加えて領内で武器と弾薬をを購入しようとしていた数人が共犯として逮捕された。その2日後、更に15人の先行部隊が赤道ギニア内で拘束を受ける。逮捕された”傭兵”たちはコンゴ民主共和国のダイヤモンド鉱山の警備が目的であり、武器と弾薬の購入もそのためだったと容疑を否認したが、両国はこの釈明を認めなかった。この拘束を南アフリカジンバブエ両政府は全面的に支持、アメリカ・イギリス・スペインの諜報機関、さらには多国籍企業の活動を非難した。拘束された”傭兵”のリーダーである南アフリカ人のニック・デュ・トイト(Nick du Toit)は赤道ギニアの国営テレビで会見し、ヌゲマ大統領を追放後、スペインに亡命中だった赤道ギニアの野党党首セベロ・モトヌサ(Severo Moto Nsa)を大統領に就任させる計画だったと述べた。モトヌサはこの陳述を否定、ヌゲマ大統領による中傷だとした。

サイモン・マン

だが、ジンバブエ領内で逮捕された者の中にははるかに大物が含まれていた。サイモン・マン──民間軍事会社の先駆け、エクゼクティブ・アウトカムズの共同設立者である。
イングランドの元クリケット選手であり、その後ビール会社を設立し財をなした父のもとに生まれたサイモン・マンはその財産にふさわしい教育を受けた。主に王室や政府高官の子弟が通う名門イートン校に入学。そこからサンドハースト陸軍士官学校、近衛歩兵第三連隊と着実に軍エリートの道を歩んだ。だがマンはそこで満足せず、さらなる冒険を求めた。彼はSASの過酷さで名高い試験を受け、一度目の挑戦で合格、諜報とカウンターテロリズムを専門とする第22SASの部隊長*1に着任する。その後キプロス、ドイツ、ノルウェー、中央アメリカ、北アイルランドで軍務に就いた。ここまでの経歴は優秀なエリート軍人の典型と言ってもよい。
1981年マンは軍を去る。そしていくつか会社経営に手を出したあと、セキュリティ・ビジネスに活動の場を移す。1990年の湾岸戦争のさい短期間軍籍に戻ったが、再び除隊すると1993年エクゼクティブ・アウトカムズ(以下EO)を設立。共同設立者にはアンゴラ内戦において石油採掘施設の警備をおこない財をなしたトニー・バッキンガムが名を連ねていた。
1995年EOが世間の注目を浴びるようになると、別の民間軍事会社サンドラインを設立*2。サンドラインの有名な活動としては、内戦下のシエラレオネ政府に対する兵站支援、ブーゲンヴィル島の反政府ゲリラの鎮圧などがある。
約1000万ドルを稼いだあと、マンは引退した。かつてのロスチャイルド家の住居、インチメリーを1997年に購入する。そうしてから家を賃貸に出し、ケープタウンに移り、郊外の閑静な高級住宅街に200,000ポンドで家を買った。隣人にはスペンサー伯爵サッチャー元首相の息子マーク・サッチャーがおり、マンは上流階級の友人たちと社交生活を楽しんだ。このまま悠々自適の隠退生活を続け、生涯を終えてもおかしくなかった。

クーデター計画

しかしマンははっきりしない理由から──経済的に困難な状況だったとの噂もある──彼を破滅させることになる運命へと突き進んでいった。クーデターの詳細ははっきりしていないが、様々な証拠が大きく2つの流れがあったことを示唆している。
1つ目の流れはチェルシー在住の経済界の大物イーライ・キャリル(Ely Calil)が関わっているとされる。ヌゲマ大統領はイーライがその友人であるセベロ・モトヌサを権力に据え、石油採掘権を奪取する計画だったと非難した。また昨年より南アフリカの傭兵ニック・デュ・トイトは漁業権と関税の問題で赤道ギニアの有力部族と交渉していたが、実際の目的は大統領のモロッコボディガードの買収であったといわれる。
2つ目はデュ・トイトのEOでの元上司、つまりマンに関する流れである。マンはキャリルとセベロ・モトヌサと会い、500万ドルの報酬を約束されたという。そこで彼は66名、アパルトヘイト期の南アと戦った古参兵を雇った。その多くはアンゴラナミビアの黒人傭兵だった。計画ではジンバブエ国内で武器を購入し、傭兵を乗せた航空機に積み込み、赤道ギニアに出発するはずだったが、計画を察知したジンバブエ政府に全員が拘束された。

サッチャーの息子

困難な立場に追い込まれたマンは獄中から妻に手紙を書き、”スメリー”(Smelly)と”スクラッチャー”(Scratcher)に連絡し、彼らの影響力を使って出獄させることを頼んだ。”スメリー”はイーライ、スクラッチャーはサッチャーのニックネームである。結局マーク・サッチャーは8月26日、南アフリカ政府によって自宅で逮捕される。
だがマンはジンバブエで有罪を宣告されたのに対し、サッチャーのほうは母親が165,000ポンドを支払い、保釈されたのだった。

*1:ここ訳語が不安。troop commander in 22 SASです。

*2:現在閉鎖中だがサイトはここで見られる。