マーティン・スコセッシ『最後の誘惑』

イエス・キリストの生涯を描くスコセッシの問題作。話題にされているのを聞いたこともなく、かなりの不安を感じたが、キャスト──イエスウィレム・デフォー、ピラト:デヴィッド・ボウイパウロハリー・ディーン・スタントン、そしてユダ:ハーヴェイ・カイテル!! ときたら、見ずにはいられまいて!
ということで見た。うーん、微妙だ。冒頭のニコス・カザンツァキ*1の原作序文からの引用にあるとおり、キリストの神性と人間性の相克を描いた作品ということなんだろう。だが、奇跡や天使・悪魔の出現など超自然的要素は排されておらず、イエスが事実神の子であることは途中から自明となり、この作品を普遍的な実存主義的物語として考えることを妨げている。いや、おそらくそのように解釈されることを望んではいないのだろうが、映画という媒体で身も蓋もなくイエスの人間的苦悩と聖書記述通りの神的・超自然的要素を併置されても、非信仰者の自分にはまったく説得力が感じられず、イエスは言行をころころ変える日和見主義者としか映らなかった。
しかし、この映画の真の主役はイスカリオテのユダカイテルである。「イエスが十字架上で磔刑を受け、預言と人類の罪の救済が成就されるためには、ユダの裏切りが必要であり、それゆえユダこそが新約聖書中もっとも重大な役割を担った人間なのだ」。こうした説は理屈としては認められ、個人的には納得もいくが、正統的な説とは当然ながらいいがたい(ここを参照)。しかし本作品では少々の歴史的推測と想像力により、ユダを血肉ある統一感のとれた人間として描き出すことに成功している。
本作のユダは熱心党(参照)の一員である。史実の熱心党はもっと宗教的・原理主義的要素が強烈であると思われるが、ユダは作中では、現代的語彙で言うとさながら“民族主義共産主義者”のごとく描かれている。ユダはローマ打倒の目的に対し、イエスが益となるか、害となるか見極めにきており、イエスに何度となく論争を挑む。場合によっては殺すつもりである。ここでの論点が言葉は違えど非常にマルクス主義的なので笑ってしまった*2。イエスとユダの関係は最初から最後まで続き、イエスが自らの使命に恐れをなしたときユダに助けを請うなど非常に親密であり、同性愛的気味さえ感じる。
最終的にユダはイエスを救世主として(あるいはユダヤの王として)認めることになるのだが、そのユダに対しイエスはこの上なく厳しい使命を課すことになる……
というわけで、ユダ=カイテル萌えの人なら見て損はないと思う。あと、いい顔率はかなり高い。洗礼者ヨハネなど最高だった。

*1:そういえば傑作『その男ゾルバ』の原作者でもあるな。

*2:例えば「魂か肉体か」というイエスとユダの対立は「上部構造か下部構造か」と翻訳できよう。まあ、これだけ読むと牽強付会と感じると思うが。