『アララトの聖母』(公式サイト) ★★★☆

アルメニア人の老映画監督サロヤンは虐殺を題材とした映画を撮るためカナダにやってくる。虐殺を生き延びた高名な画家アーシル・ゴーキーの研究をしている同じくアルメニア人の美術史家のアニは悩んでいた。前の夫がトルコ大使暗殺を試み死んだこと。新しい夫は自殺し、その娘のセリアはアニのせいだと責めていること。前の夫との間の息子ラフィとセリアが性的関係を持っていること。アニの講義を聴いたサロヤンは映画にゴーキーを登場させることを決め、アニに協力を依頼する。助手として映画に協力することになったラフィは虐殺の現場を見ようとトルコに旅立つ。トルコから帰ってきたラフィは税関検査官に止められ、フィルムの缶に麻薬を隠していると疑いをかけられる。そこでラフィは旅の目的や経緯を検査官に物語っていく……
この映画を観る前に知っていたことは大きく2つ。

  • アルメニア人大虐殺を扱った映画
  • 虐殺を直接描くのではなく、虐殺を扱った映画の撮影に主人公が関わって……のような感じのメタな形式

ということで、「アルメニア大虐殺は第一次大戦ごろだったはず。ってことは直接経験した世代はもう亡くなってるわけで、後続の世代が虐殺をどう表現し、受容するかっつう話なんかね? トルコ政府が未だ虐殺を認めていないっていう微妙な問題もあるしな。啓蒙的路線も自然にだせるし」などと漠然と考えていた。
上の推測はだいたい間違ってなかったけども、それにしては目的を達していない部分が目だったように思う。
まず構成が複雑過ぎる。時系列は錯綜しており、税関でラフィが旅の目的について話していたかと思うと、サロヤンの映画のアルメニア人虐殺の場面に移り、さらにアメリカに渡ったゴーキーが絵を描いてる場面へ、といった感じで非常にめまぐるしい。個々の場面はきっちり撮られているので話が分からなくなることはないのだが、こうした手法を使う理由がいまいちわからない。
また上のあらすじで触れた部分以外にも、税関検査官にまつわるエピソードがある。この定年間際の検査官は同性愛者の息子との関係に悩んでいる。その息子はアニがよく講義をする美術館の職員をしており、恋人はサロヤンの映画に総督役で出ているトルコ人だ。検査官はラフィの話を聞くうちにかたくなだった態度を改めることになるんだが、このパートはあまり説得力も必然性もない。正直いらないんじゃないか?
あとは映画内映画の監督サロヤンが「これは真実の記録というわけではない」、「詩的許容というものがある」とか言うのはいい。そのためにメタ構造にしたわけだから。でもその後「言い訳はすませたぜ!」とばかりに戦闘場面や虐殺、トルコ軍の蛮行などを”普通の映画”のように撮ってしまうのは反則じゃないの? もちろん最低限必要な描写ではあるが、そうした部分が長すぎ、執拗すぎると思う。
最後にこれは映画の根幹に関わる話だが、ラフィがトルコに向かった理由がよくわからなかった。いやセリアに「心の目で真実を見てきて」みたいに言われて行ったのはわかるけど、別に行っても何も解決しないだろ。セリアはアニが父を殺したと考えているんだけど、トルコに行ってなにか発見するわけでもないし…… 総じてこのセリアはひどい扱いを受けてる。
文句ばっかり書いたが、力作であることは確かだし、監督の並々ならぬ技量も伺えた。続けて2度見たぐらいだ。しかしこういった題材を扱うとある意味完璧であることを要求されるのは仕方がないような気がする。